「源氏物語」と言えば、日本人なら知らない人はいない、いや世界中でも多くの人が知っている、非常に有名なラブストーリーです。
この作者の紫式部は、文章からも分かる通り、非常な才女でした。
天才の定めは、平凡な人生を送れないということです。ということは当然、その性格やものの考え方も凡人とは異なっていることがほとんどです。
それでは紫式部は、どんな性格だったのでしょうか?
今回はその意外な事実についてお伝えしたいと思います。
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紫式部の基本情報
紫式部は、平安時代中期の人物です。『源氏物語』は日本最古の長編小説と言われ有名ですが、他にも『紫式部日記』などを記しています。
父は藤原為時という中流貴族の歌人であり、幼い頃から歌や文章に触れる機会の多い生活を送っていました。
『源氏物語』が宮中に広まると、その才を藤原道長に買われ、娘である一条天皇の中宮の彰子に仕えることになりました。
ここまでは歴史の授業などでも学んだ、ごく一般的な知識ですね。それでは、具体的に作品の内容などから、紫式部の性格について検討していきたいと思います!
平安時代が紫式部の性格を作った
今でこそ、世界的に社会は男女平等を目指すという方向に動いていますが、当時は男女の性差は激しいものでした。
例えば、漢詩は男の学問でした。女がそのような知識をつけることは生意気であり、男を立てる気がない人物だと見なされてしまう時代だったのです。
紫式部はそれに随分と苦しめられた女性でした。
屏風に書いてある漢詩が本当は読めるのにも関わらず、周りから反感を買わないようにわざと分からないふりをしたというエピソードが残っているほどです。ただでさえ天才は「出る杭は打たれる」ということで疎まれやすいのに、「女だから」という理由まで加わって嫌われては、たまったものではありませんよね。
そのため、とにかく「知識をひけらかさない」という控えめな性格の女性に育ちました。
とにかく不遇の紫式部
藤原道長からの命で彰子に仕え始めたものの、紫式部は周りから無視といういじめを受けます。理由は、『源氏物語』を書き記したことによるものでした。「なーにあの子、女なのにインテリぶっちゃって」といった感じです。
彰子は、漢詩の講義をしてくれるよう紫式部に頼むなど、彼女を丁重に扱っていましたが、皆が皆そういうわけにはいきませんでした。
それに耐えきれずしばらく宮仕えを休んだ紫式部は、久しぶりに出仕したときから、思い切り愚か者のふりをします。それはもう徹底的に、「本当にあの源氏物語を書いた人なの?」と思われるほどに。
この作戦が功を成し、それから紫式部は周囲に溶け込めるようになりました。
非難せずにはいられない「清少納言」
さて、ここまで紫式部は控えめで、いかに自分の知識を隠そうとするかということに神経を使う女性だったのかということをお伝えしてきました。対して、正反対とも言える女性がいたのです。
それは清少納言です。
彼女は一言で言えば無邪気であり、自分の才が周りに認められるのが嬉しくてたまらないという性格でした。漢詩についての知識も、男性と張り合うほどに惜しみなく披露していました。
それについて、紫式部は『紫式部日記』で、「清少納言はやたらと知識をひけらかすが、半端である」とこき下ろしています。彼女にとっては、豊富な知識を隠そうともせず、堂々している清少納言がさぞ信じられなかったことでしょう。
ただ私は、そこに僅かながらの嫉妬もあったと思います。
清少納言が使えていた中宮・定子という女性や、その周りは、清少納言の知識を賞賛してくれるような人々だったからです。もちろん時代が時代ですから、清少納言もある程度は辛い思いをしたのでしょうが、この環境の差は大きかったと考えられます。
そのため、紫式部を語るならば、比較として清少納言の存在は欠かせないということです。
まとめ
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日本最古の長編小説『源氏物語』や、『紫式部日記』を記した紫式部は、その才を買われて、一条天皇の中宮・彰子に仕えることになる。
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当時は才ある女性は生意気と見なされる時代だったため、紫式部は屏風に書いてある漢詩をわざと読めないふりをしたりなど、相当立ち振る舞いに気をつけていた。
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宮仕えを始めてからいじめを受けるようになり、そこからわざと愚か者のふりをせざるを得なかったほど、不遇の女性だった。
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そのため、自分とは正反対にその才をひけらかす清少納言のことは良く思っていなく、『紫式部日記』において批判している。
なんだか紫式部が可哀想になってきてしまいました。
ただ、不朽の名作『源氏物語』と共に、紫式部はこれから先もずっと歴史に名を残すでしょうし、周りにその才を認められていたのも事実です。彼女にとって生きにくい時代だったとは思いますが、その性格だからこそ、あの名作が生まれたのかもしれませんね。