「春はあけぼの」から始まる枕草子は、誰もが一度は聞いたことがあると思います。

 

自他共に認める才女であった清少納言は、その知を存分に枕草子に書き記しています。私たちと生きている時代は全然違うはずなのに、彼女がどんな思いで生活を送っていたのかがとても伝わりやすいその文章は、その時代の研究にもとても役に立っています。

 

さて、清少納言と言えば天真爛漫な性格ということをよく聞きますが、それは本当でしょうか?

 

当時の時代背景にも触れながら、清少納言という1人の女性について考えていきたいと思います。

清少納言についての基礎知識

彼女は清原元輔の娘として、平安時代中期に生まれました。

 

実は「清少納言」とは本名ではありません。まず親戚の近い者に「少納言」という位の人がいたこと、それに血筋が清原氏の元であることから「清」の字を使い、「清少納言」となったようです。

 

こんなに有名で歴史的価値のある作品を残しているのに、本名が残らないのですね。その時点でいかに男女で学問的な扱いに差があったのかということが分かります。

 

正確なことは分かりませんが、本名は「諾子」だという説があります。

 

一条天皇の中宮である定子に仕え、その知識の豊富さから寵遇され、清少納言もまた定子ののことを大変慕っており、『枕草子』にはその様子もたくさん描かれています。

時代に逆境して生きる女清少納言

平安時代には、女が漢詩の知識を持つことはあまり良しとされていないことでした。知識をひけらかすことは恥ずかしいこととされ、男を立てることが重要視されていたからです。

 

しかし清少納言は、こそこそと知識を隠すことはしませんでした。

 

また、環境にも非常に恵まれていたと思います。定子や周りの女房たちも、その知性あるユーモアを面白がったと言われているからです。

 

同じく才女と言われた紫式部は、よく清少納言と比較される女性ですが、面白いほどにこの2人は正反対の性格と言えます。

 

紫式部は自分の知性のせいで周りから浮いてしまうことを恐れ、周りよりも愚か者のふりをする、なんていう女性でした。そのため清少納言の存在は鼻に付くものだったらしく、彼女の著作『紫式部日記』では、「大したことのない漢詩の知識を披露する半端者」といったような批判をしています。

 

2人は同じような中流貴族の家庭の出身だったということもあり、育った環境が似ている部分があります。共通点があるからこそ、余計にその言動が気になったのかもしれませんね。

清少納言の強さの中に見える明るい優しさ

一条天皇は、皇后は定子、中宮は彰子という、正妻が2人もいるとてもややこしい婚姻関係をもっていました。

 

これには当時の藤原道長の権力が凄まじかったという背景があります。

 

もともとは中宮が定子で正妻が1人だったのを、道長が無理やり彰子を正妻にさせたいがため、定子を皇后にし、空いた中宮の座に彰子を入れるという形を取ったのです。うーんややこしいですね。

 

道長の後ろ盾があるため、彰子の権力は定子と比べて断然強く、一条天皇も実際の愛情はともかくとして、彰子の側にいることが多くなります。そのため、定子の周りはだんだんと寂しい状態になっていきました。

 

しかし『枕草子』にはそんな様子は一切書かれておらず、自分の憧れだった明るい定子の姿のみが描かれています。このことから、清少納言が勝気で利発なだけの人物ではなく、愛情深く優しさも持ち合わせていた、魅力的な女性であったということが分かるのです。

 

清少納言まとめ


  1. 平安時代に歌人として活躍した清少納言は、実は本名ではなく、その名は血筋と位の関係から付けられたものだった。真偽のほどは分からないが「諾子」という名前だったという説がある。
  2. 「女は漢詩の知識を持つべきではない」という時代の流れに逆らうように堂々と生き、そのためか紫式部には批判されていた。
  3. 『枕草子』では、だんだんと権力を失っていく定子の様子は決して描かず、明るい様子だけを記していたことから、清少納言の愛情深く優しい性格を読み取ることができる。

 

清少納言というと、「枕草子」でズバンスバンとモノを言う様子もあり、強気な女性だったというイメージが先行しがちです。

 

たしかにそれは間違いではないのですが、それだけではなく、裏表のない性格であるということや、優しさも持ち合わせいるということがよく分かりました。こういう風に堂々と生きる女性はいつの時代にも輝いて見える存在であり、憧れてしまいますね。

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